清水 雅也 story2

こんにちは。実行委員の清水です。
ヒストリーの第2回投稿となりました。
前回までは、誕生から幼稚園までを振り返りましたが、今回からいよいよ学業生活が始まります。
これまでとは、関わる人間の数が違い一気に増える環境になります。雅也少年、うまく渡れるのでしょうか? では、始まります!!

小学校に入る

平成元年4月、地元の公立小学校に入学。晴れてピカピカの1年生になれました。
幼稚園時代、夜をブイブイ言わせていた不良幼児も、6年間の学校生活で更生を誓うことになります。
入学式翌日から、当然のごとく
「ねぇ、なんで髪の毛白いの?」「ねぇ、なんでサングラスしてるの?」
の質問攻め、クラス全体の自己紹介後、私の方はまだ全員名前と顔が一致していないにも関わらず、タレントの不倫疑惑記者会見よろしく質問のあめあられ。。。
おそらく、同じクラスのみんなは「白い奴が清水」と比較的憶えやすかったのではないでしょうか。
そして、矢継ぎ早に聞かれる質問に対し、雅也少年はマニュアルのごとく
「うまれつき~」「サングラスじゃなくてメガネだよ~。目がわるいんだ~」
を繰り返す日々。この質問は大人になった今でもしばしば聞かれるが、少年期から思い起こしても「げ、またそれ聞くの?」みたいにうんざりしたことがないんです。
他の当事者さんだと「いちいち聞かないでよっ!」とイラついたりもすると聞いたことがあるが、自己紹介やその後の関係構築のきっかけになると捉えているのでストレスを感じたことがないんです。逆に「初対面でズケズケくるなぁ」と相手のキャラの値踏み(失礼ですね、ごめんなさい)をする材料にしているくらいです。

入学式の午後に撮影
キャップに赤いネクタイ、ブレザーってまるで横山やすし師匠のようだ。
そして、親父よ。。。なぜサンダル??


雅也少年の小学校での日常
視力の問題があり、席は最前列。しかも、板書が定位置からは見えないのでノートを取るときは机をズリズリとさらに前へずらし、写し終えるとまた定位置に戻る。これを一コマの授業で3~4回はしていたと記憶しています。
先生もクラスのみんなも、写し終えるまで待ってくれたり、先生がうっかり消そうとするとクラスメイトが「先生~、清水がまだ書いてない」とナイスアシストしてくれることもありました。ただ、今思うと、自分のペースで理解を深めていきたい子にとっては、それなりにストレスなっていたのかもしれないと少し申し訳なく感じることもあります。
視力以外の面では、日焼けが天敵な我々アルビノ。夏になれば体育、特にプールは憂鬱の種でして。学校が屋内プールだといいのですが、市立の小学校にそんな豪勢な設備を期待してはいけません。薄手の長袖シャツに履き古しのジャージズボンを水着にしてがんばりました。着衣水泳を経験されたことがある方ならわかるかもしれませんが、マジで死にそうになります。
ウェットスーツのようにワンピース構造ならいいんですが、ただのシャツとズボンなので、ズボンにインしたシャツがバタ足で出てきてしまい、膨らんだシャツに水が流入し抵抗になるのです。泳いでいるのかおぼれているのかよくわからない状態です。小学生なら「わーいプールだ」と諸手を挙げて喜ぶのですが、私にとっては数少ない、学校での「憂鬱なこと」でした。
それでもほかの種目の体育や理科の屋外授業は頑張っていました。(成績がよかった訳ではありませんが・・・)
こんな感じでみんなとちょっと違う形で小学校ライフを送っていた雅也少年。
たまに、「人と見た目や物事への取り組み方が違う」ことを憂いて「いじめられたりしなかった?」と心配して下さる方がいらっしゃいますが、周囲に恵まれたことと、前回で触れた「母の画策」によりほとんどありませんでした。
自分では「全くなかった」と自認しているのですが、今でも憶えている出来事が2つあります。

いじめっぽかったエピソード①

一日だけの「登校拒否」
憶えているといっても、登場人物はおろか「どんなことを言われたか」すら思い出せないのですが、1日だけ「登校拒否」をしたことがあります。
どんな質問にもマニュアルよろしく受け応えしていた雅也少年の琴線に触れる何かを言った子が居たのでしょう。翌朝、母に学校へ行きたくない旨を話すと「わかった」と学校に行きたがらないことを咎めることもなくその日は家で過ごすことにしました。
お昼休みになる前の時間帯だったかと思うのですが、担任の先生から私宛に電話があり「もし、また何か嫌な思いをすることがあったら先生に話してね。先生協力するから、また明日から学校いらっしゃい」と話してくれたことを憶えています。本当ならいきなり休むという選択肢に出る前に担任の先生に相談するのが先だったんですが、そこは小学1年生、何かに遠慮していたのか、ほんとうになにも考えずに行動に移しただけなのか、今ではもうわからないことなのですが、先生はこの行動も「意思表示のひとつ」と捉えてくれ、母同様学校へ行かないことを咎めることはしませんでした。
基本的にボーっとしていた子供時代でしたが、これを機に「家族以外の大人を信じてもいいんだなぁ」と体感的に感じた出来事でした。

いじめっぽかったエピソード②

「俺はスーパーサイヤ人じゃねぇ」
このエピソードは今でいう「イジリ」なんだと思います。私の世代はドラゴンボール世代。クラスの男子の大半は毎週の放送を楽しみにし、下敷きや鉛筆などのグッズを見せ合うなど非常に盛り上がっていたことを憶えています。
ドラゴンボールをご存じの方ならわかるかと思いますが、主人公が変身?本気を出すと??髪の毛が金色になりますよね?そうアレですアレ!
目ざとい小学生には「うちのクラスにスーパーサイヤ人いる」と私の頭髪をさして大盛り上がり。ここで、私が自他ともに認める「ドラゴンボール大好きっ子」なら「オッス!オラ●空」と軽く返すところなんでしょうが、生憎、登場人物の名前がやっと一致する程度の熱の低さ。いきなり変なネタふりされた技量のない芸人がごとく「なんだそれ!俺はそんなサイヤ人じゃねぇ!」とマジ返答。なんとも面白くない奴です。これには、周囲の友達(非ドラゴンボール民もドラゴンボール愛好家も両方いました)が言い返してくれたこともあり、その場で事態収束する結果に。
これはいじめとか嫌がらせではなく、打ち合わせなしでイジリネタを振って大失敗したという程度の話ですね。現に、言ってきたクラスメイトと普段から仲が悪かったりしていたわけではないので、アルビノが故にイジられただけの話ですね。
余談ですが、この頃の雅也少年、ドラゴンボールにハマらず何にハマっていたかというと、ラジオです。
しかも、割と深夜に近い時間の文化放送という「え?そこはオールナイトニッ○ンじゃないのかよっ」というあまのじゃくっぷり。なぜ聴き始めてハマったのかは憶えていないのですが、気づくと同じ番組を聴くクラスメイトと「昨日のアレ聴いた?」と番組を振り返り、しまいには番組そのものをコピーする変な遊びまで始める始末。。。登下校の際に大声でやってたので、通学路にお住いのみなさん本当にごめんなさい。
以降、声優さんが好になり、好きな声優さんが出ているものはアニメ・吹き替え映画問わず、声優さんの声を聴くために見るような「声オタク」にすっかり成長してしまいました。オタクへの道が始まった瞬間ですね。
全体的にボーっと過ごしていた雅也少年、それなりに友達と楽しく、賑かに過ごしていたのですが、入学から4年経ったころひとつの転機を迎えます。
それが「盲学校への転校」です。

盲学校への転校

ある時期から「明日、出かけるから学校休みね。先生には言ってあるから」と母からのお達し。「どこに何しに行くんだろう」とぼんやりと考えていました。このころに、身体障碍者手帳の取得、盲学校への転入準備に入っていたのだと思います。
視力検査へ少し設備の大きい地元の眼科へ行き、視力状況と手帳申請に必要な診断書の取得、市役所の福祉課や教育委員会へ出かけていったことを思い出します。学校でみんなが給食を食べている頃に、母とファミレスで「好きなもの食べていいよ」とやりとりしていて、「みんな給食食べているのに、病気で休んでいるわけでもないのに、こんなところでごはん食べてていいのかなぁ」なんてちょっと考えたりもしていました。
ある程度準備が整った頃、「あんた、5年生から盲学校へ行くから」と指令がでる。
「もーがっこー。どこそこ?」と私。以下、視力に障害がある子たち(実は大人もいます)が通う学校であること。母から「お前も見えにくいだろうから、これからは勉強しやすい場所になるよ」との説明を受ける。
冷静に「あぁ、転校するんだぁ」ぐらいに感じていたと思います。地元の小学校4年間にも転校していく子、転入してくる子を見てきましたが、まさか自分が転校する側になるとは思ってもみませんでした。なぜなら、自分の転校には家族の引っ越しがないからです。両親ともに市内の出身ですし、父の職場も地元で転勤などない業種ですから、私の教育環境の変化のためにどこかへ引っ越すなんてことはあり得なかったのです。
後述しますが、この時寄宿舎への入舎もセットにされていたのです。

小旅行?1泊2日の「体験入学」

転校はほぼ確定していたとは思うのですが、先駆けて「体験入学」なるものがありました。
盲学校はほぼ全国的に県下に1つという特殊な学校です。東京都や北海道は複数校ありますが、私の地元千葉県では四街道市に1つだけでした。
盲学校に到着し、教室に案内されてまず驚いたのは「教室が地元の学校の半分の大きさしかない」「机が大きい」「ランドセルを使ってる子がいない」「廊下のセンターラインが盛り上がってる」でした。
ひとつずつ解説すると、
「教室が半分の大きさ」→そもそも生徒数が少ない。
「机が大きい」→点字や拡大文字の教科書は場所を取る。拡大読書器などを使用するケースもあるため。
「ランドセルを使っている子がいない」→点字や拡大文字の教科書だとランドセルに入りきらない。
「廊下のセンターラインが盛り上がっている」→足の裏で突起を感じることで廊下の右側を歩ける。

ボーっとしている4年生男児でも、ぱっと見でこれだけの違いを発見。
それに合流した同学年は私を含めて3人。まるで過疎地の分校です。
授業の内容はさして変わらないため割愛しますが、授業が終わって向かった先が自宅ではなく「寄宿舎」。この四街道市にある学校、私の地元からは電車とバスで2時間弱。毎日は通えないため学校から徒歩10分足らずの寄宿舎が家代わりになります。
ここは、盲学校の各学部(幼稚部を除く小学部・中学部・高等部・専攻科)の生徒で自宅からの距離の問題や、視力障害による日常生活動作(ADL)のトレーニングの目的のために宿泊している学生がいます。
体験授業の1日目が終わり夕方、他の生徒と集団下校します。
下校後は自由時間→夕食→入浴→自習時間→自由時間→就寝という流れでした。
この就寝前の自由時間、つまりは布団を用意したり寝間着に着替えるのですが、小学2~6年生がそろい、初めて泊まりにきた子(私)がいれば当然はじまるのが「枕投げ」です。
今考えると驚くべきことなんですが、視力のハンデなど一切考慮せず参加者は全員全力投球!! パラスポーツもびっくりのノーハンデです。これは、みんなきちんと「部屋の大きさ」と「ぶつけたい相手の声の方向」の2つをきちんと把握できているからなんですね。
寮母に叱られつつ就寝前にひと暴れし、あっという間の体験入学1日目が終了しました。
二日目は朝6:30に起床。廊下に一斉に並び点呼を取ります。「○○号室 ○名中○○帰省○○体験○名異常なし。おはようございます」という一連のやりとり。窓に鉄格子があったらさながら刑務所のそれとなんらかわらない様子です。
その後は掃除→朝食→身支度→登校となり、2日目の授業を順調に受けます。

1日目から気になっていたのですが、他の教室から「ゴツゴツ」とか「ガチャガチャ チーン」という町工場の作業音のような音が聞こえてきます。
初めて聞く音に「何かなぁ」と思うものの聞くことができなかったのですが、のちに分かったのは、これらの音は「点字」を書く音だったのです。「ゴツゴツ」の音は手書きのもので、画用紙ぐらいの堅い紙に先の丸いアイスピックで凹凸をつける際に机に響く音で、「ガチャガチャ チーン」は点字用のタイプライターの音でした。
これも初見の雅也少年。すごく不思議なものを見たという記憶があります。

ちなみに、私の学年は全員弱視で点字使用者がいなかったので、これらがわかったのが入学後だったということです。

無事2日の体験入学を終え「どうする?行く?」と母に聞かれ、あまり深く考えない小4男児は「うん」と二つ返事で転校を決意しました。

これが噂の「寄せ書き」か

盲学校への入学を決意し、5年生の春から地元を離れることになったみやび少年、地元の友人に別れを告げます。ただ、みんな不思議そうにするのは「引っ越さないのになぜ転校?」という疑問。これも「目が悪いから。もーがっこーってところへいくんだ~」となんともライトな受け応え。そうこうするうちに地元での最後の登校日。過去、転校していった友達がもらっていたクラス全員からのメッセージが書かれた色紙をもらう。
この時は、「たまに土日とかにまた遊べるかなぁ」なんて思っていたのですが、5年生ともなるとみんなそれぞれ「習い事」「学習塾」に時間をとるようになり、地元に帰ってもだれかと遊ぶということがこれ以降ほとんど無くなりました。
たまに、商店街なんかであうことがあっても、友達のほうがスケジュールがあったりして転校後に遊んだという記憶がないですね。
ちょっと寂しくもありましたが、ひとまずみやび少年の新章「盲学校での生活」が始まるのでした。

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